薪を背負い、手に持った本に視線を落としながら歩く少年の像。そう、あの二宮金次郎だ。小学校でなら見たことがあるが、なぜこんな所に? 気になって、調べてみた。
像は市道に面して南向きに立っており、東側に鉄骨2階建ての建物がある。市の施設で、地域の集会などに使われている南桜塚会館。出入りする人たちに像について聞くと、近くに住む永井敏輝さん(70)が詳しい、と紹介された。
さっそく連絡をとった。「昔は西を向いていたのですよ」と永井さん。この場所には戦前から、そろばんや勉強をする子供たちが集まる木造平屋の集会所があったらしく、像はその建物の玄関脇にそびえる大きなクスノキの横に、西側の道を向いて立っていた。「勤勉な大人になるように」と地元の有志が1936年、集会所に寄贈したと伝わっている。
市に問い合わせると、集会所は時期は不明だが、南桜塚会館と呼ばれるようになり、市が2006年、東側半分の土地を購入して現在の会館を新築したことがわかった。地元住民らから像を新会館の前に移転するよう要望されたが断ったといい、担当者は「市の建てた像ではなく、公共施設の敷地にふさわしくないので」と話す。
永井さんによると、市内の小学校にも断られ、結局、新会館の横に約30平方メートルの土地を共同所有する住民らが、「子供たちの将来を思ってお金を出し合った先輩たちの気持ちを引き継ぎたい」と協力を申し出た。像は翌07年、以前より南東約4メートルの現在の場所へ。市道に面するように、顔の向きも変わった。
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なぜ金次郎像は行き場を探して、こんなに苦労しなければならなかったのだろうか。金次郎の生誕地・神奈川県小田原市の尊徳記念館に聞いた。同館の説明では、地元住民らが資金を集めて1928年頃から全国各地の小学校に像を贈ったが、このうち銅像は戦争中、金属の材料として供出され、残った石像も、小学校の統廃合などで消えたものが多いらしい。
同館は「金次郎像は戦争のイメージと重なるとされることがあるが、もともと、地域のためにこつこつと尽くした生き方を子供たちに知ってほしいと住民らが寄贈したもの。戦後はそうした美徳が重視されなくなったが、現代でも学ぶところが多い」と、残念がる。
豊中市の市道沿いの像は、寄贈されて75年とは思えないほどきれいだ。それは、住民らが時折、布で拭いているから。永井さんは「幼い頃、よじ登ろうとしてよくどなられたもんです」と懐かしむ。通行人には目もくれず、物置の陰で黙々と本を読む金次郎像。少し寂しそうにも見えるが、地元の人々に守られ、喜んでいるかもしれない。
◆二宮金次郎=1787~1856年。二宮尊徳。江戸時代の農政家。農家に生まれ、農作業を手伝いながら独学で読み書き、算術を覚えた。度重なる飢饉(ききん)に疲弊した全国の村々の救済に尽くし、農村の復興と藩財政の再建に努めた。戦前の国定教科書で修身の象徴として取り上げられた。(渡辺彩香)
(2011年12月5日23時52分 読売新聞)
日本の象徴的的な銅像がこんな扱いされてるとは・・・